愛しい人たちへ
>> トップページ
>> 問合せフォーム
>> リンク
第1話 「極限の地に生きる人たちからのメッセージ」
ギニア湾沿岸を離れ北上し始めると、時速10キロメートルの視界は、じめじめとした緑の多い熱帯性の景観から茶色が目立つ乾燥性の景観への変化をとらえていく。時速10キロメートルで1日に移動できる距離は、アフリカではせいぜい80キロメートル〜100キロメートル。しかし、たった一日の移動でも微妙な環境の変化に気づくことも多い。人種の変化、言語圏の変化、宗教圏の変化、ここではありとあらゆるものが混在するがゆえに、自転車の速度がその地域を見るうえで、最も効率的なスピードなのかもしれない。
ギニア湾沿岸地区を離れ内陸に向かうにしたがって、米・パンを主体とした食文化から、いわゆる粟や稗を主体とした食文化になっていく。また、人々の暮らしも質素なものになっていく。しかし、人々の暮らしが質素になるほど、逆に親切で人懐っこい。このことは文化の伝来が比較的困難な未舗装道路沿いに住む人々と接すると感じる。また、彼らは外国人である僕に対し、何の壁も持たず、何もかもをさらけ出して接してくる。それに釣られ、次第にこちらも何もかもをさらけ出して彼らと接するようになり、喜怒哀楽が激しくなる。喜びたい時は喜ぶ、怒りたい時は怒る、そして、泣きたい時は泣く。何といってもこれがアフリカの醍醐味だ。
 
2004年8月20日、アフリカ大陸を悠々と流れるニジェール川を渡り、ベナン共和国からニジェール共和国に入る。上流域が雨季のせいか、水量が多く、川の水はミルクコーヒー色に染まっていた。ありとあらゆる観点から調査されている国連の人間開発報告書では、ニジェールは世界で二番目に貧しい国であるとされている。道路はおそらく植民地時代にフランスが作って以来、全く手入れをしていないのか、穴ぼこだらけで走りにくい。そんなニジェールで、僕はある日本人女性と出会った。
 
日が暮れかかったころ、人口1000人ほどのガルミという町に入り、比較的大きな病院の敷地内にテントを張らせてもらうことになった。テントを設営していると一人の看護婦らしき女性が歩み寄ってきて、「あなたはシノワ(中国人)ですか?それともジャポネ(日本人)ですか?」と尋ねてきた。「ジャポネです。」と僕が答えると、彼女は「うちの病院に吉岡洋子というジャポネがいるよ。連れてくるからちょっと待ってて!」と言った。
 
5分後、彼女に連れられてやってきたのは、紛れもなく日本人女性だった。何て話しかけたらよいのか戸惑っている僕に、日本人と思われる女性は、「・・・ジャポネ?(あなたは日本人ですか?)」とこの地の公用語であるフランス語で話しかけてきた。「はい。」と胸を張って日本語で答えた。初めて日本語で話しをした時、彼女の口から発する日本語は少しイントネーションがおかしかった。それもそのはず、彼女はアメリカで5年間、そしてこの地で9年間も看護婦兼宣教師として勤めていた。僕自身ガーナを出国して以来、約3ヶ月ぶりに出会った日本人。彼女もまさかこんなところに日本人がやってくるとは思ってもいなかったようで、話が尽きることはお互い無かった。看護婦としてアメリカで勤務していた彼女は、研修でこのニジェールにやってきた。そして、この国の乳幼児の現状を目の当たりにし、それ以来この地に住みついたのだという。
 
翌日、彼女の働く病院で診察を見学させてもらうことになった。吉岡洋子さんの専門は5歳以下の乳幼児。母親に連れてこられてやってくる子供たちは栄養失調のせいか、お腹が出ていて手足はおそろしく細い。明らかに重い病に犯されて意識不明になっている子もいた。一番僕がショックだったのは、お母さんが病院に連れてきたときには既に亡くなっていた子供のこと。そんな中、吉岡洋子さんは淡々と仕事をこなしていた。
 
吉岡洋子さんは、3人に1人の子供は5歳になるまでに亡くなってしまうというこの国の状況をこんな風に語ってくれた。「何よりも母親に子供を助けようという強い意志がない。お金が無いなどの理由もあるけれど、病院に連れられてくる子供はもう手遅れの子が多すぎる。母親たちは子供が死ねば、また産めば良いと思っている。でも、私は彼女たちのそんな考え方を否定するつもりはない。弱いものが死んでいき、強いものが生き残る、これは当たり前のことなのだから。」
 
ありとあらゆる病原菌から身を守り、人類繁栄を維持していくためには、強い遺伝子が残っていかなければならない。理屈では分かっていても生存競争を目の当たりにすると複雑な気分になる。結局このガルミには2泊し、この町を跡にした。アフリカが秘めている先進性を意識しながら、次の国チャドに続く砂まじりの道を進んで行った。
 
アフリカを走り出して、2年の月日が経っていた。アフリカのなかでも秘境と言われているこの土地で、ひと気のない荒れた道を走っていると、日本のことをふと想うことがある。家族のこと、友人のこと、会社の同僚のこと。
 
「人一倍寂しがりや屋な僕が、なぜ、今こんな荒野にひとりでいるんだろう?」
 
長いアフリカでの生活のなかで、アフリカでの非日常が日常になり、日本での日常が非日常になりつつある頃、そんなことを想ったりする。




「アフリカのA国で内戦勃発」、「アフリカのB国で数万人の虐殺」、新聞の記事を大きく飾るのは、アフリカで起きている多くの命が失われている事件ではなく、日本の身近で起きている事件。アフリカで起きている大きなニュースは、そんな日本の身近で起こっているニュースの影で、紙面のスペースを埋めるかのように小さく掲載されているのをよく見かける。中学、高校の頃、新聞でアフリカの記事を目にするたびに、その事件の規模の大きさに相反して、記事としては小さくしか取り扱われていないことに疑問を持っていた。遠くで起きている大きなニュースよりも、身近で起きているニュースが取り上げられるのは当たり前のことだが、報じられることの少ないアフリカでは、いったいどんなことが起こっているのだろうと想うようになった。「アフリカに行ってみたい。」その想いが初めて実現したのは、今から13年前の21歳のときだった。
(つづく)
                                            2話へ≫
▲ページTOP
KHS Japan Powertools 事業部 〒537-0013 大阪府大阪市東成区大今里南5-5-5 e-mail:info@khsjapan.com