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第18話 「冷戦の後遺症」
肌をジリジリ焼くような太陽が照り付けている。午後になり気温は40℃を超えた。酷暑の中では体力の消耗が激しく、5km程走ってはナヨナヨと道端でへばってしまう。自転車を止める度にペットボトルに入れてある井戸水に手が伸びる。しかし、太陽の熱で温められた水の生暖かさと井戸水の臭さの絶妙なハーモニーに、喉が拒絶反応を示す。道路から15メートル程離れた茂みの向こうに涼しそうな木陰があった。本能的に足は木陰に向かおうとしていたが、思いとどまった。
 
看板に残るいたずらに発砲されたと思われる銃弾跡、焼き払われて放ったらかしになっている車や建物の残骸、今まで走ってきたアフリカの国々には無かったものが、次々に目に飛び込んでくる。植民地時代、ポルトガルからの独立運動を続けてきたモザンビーク開放戦線(FRELIMO)は、アフリカ各国の独立の波から少し遅れることの1975年、独立を果たした。FRELIMO政権は、独立後もその勢力を維持し、旧ソ連の支持の元、社会主義国家を築き上げようとしていた。しかし一方で反社会主義政権を唱えるゲリラ組織、モザンビーク民族抵抗運動(RENAMO)が南アフリカ等、白人国家の支持の元、その勢力を伸ばしFRELIMO政権との内戦に突入した。RENAMOは民家を焼き払い、インフラを破壊し、100万人に及ぶ犠牲者が出た。1992年に二党の間で和平協定が結ばれるものの、荒廃した国土と、内戦中に埋められた200万個にも及ぶ地雷が、今でもモザンビーク経済と国民に大きなダメージを与えている。東西冷戦の戦火がこの地にまで及んだことは言うまでもない。
 
モザンビークに入り50km進んだところの最初の町らしい町、Changaraでのこと。町の中心らしきところで自転車を停め、モザンビークに訪れて初めての町の雰囲気を窺う。寿司詰め状態のポンコツのミニバスがやってきて手動のドアが開く。「もあぁっ」とした熱気と汗臭い空気と共に、“こんなに人が乗っていたのか!”と思うほどの人が降りてくる。ミニバスの天井には、豆などの食料や生きたニワトリなどが、“これでもか!”と言わんばかりに縛り付けられており、ニワトリはけたたましい鳴き声を発している。大声に誘われ別の方に目をやると、何やら男同士の喧嘩が始まっている。一人の男が相手に殴りかかろうとしているところに数人が寄ってたかって止めに入っている。一瞬喧嘩が終わったと思いきや、受身だった男が急に様相を変え、興奮している男に殴りかかる。それを見ていた群衆が興奮しお祭り騒ぎになる。人が動くたびに舞い上がる土埃、無意味に鳴らされるポンコツ車のクラクション、けたたましい動物の泣き声、人間の喧騒、人間や動物から発する臭気。このギラギラしたエネルギーは、20年間続いた内戦の余韻なのだろうか?それとも国が発展していく過程で溢れ出る余ったエネルギーなのだろうか?このエネルギーに押し潰されそうになり、居てもたってもいられなくなった僕は、喧騒から逃げるように町に1件しかないというホテルに逃げ込んだ。
 
「お前本当にここに宿泊するのか?」
ホテルのオーナーらしき男が不機嫌そうに出てくる。
“ああ。ここ以外にホテルは無いんだろ?1泊いくら?”
「50,000モザンビークメティカル(約400円)だ。」
 

 
部屋に案内されて思わず固唾を呑んだ。コンクリートで出来た家屋は、歪(いびつ)な平行四辺形の形をしており、“つい最近地震でもあったのか?”と思いたくなるような様相。男が部屋のドアを蹴破るように開けると、日中に籠った太陽の熱が、カビの匂いとに共に溢れ出てくる。タタミ2畳ほどのスペースには木のベットが置かれており、その上には真ん中に大きな穴の開いた布団。小さな窓から差し込む光が、おびただしいほどの蜘蛛の巣を映し出している。簾のようなもので囲われたトイレらしき所に足を踏み入れると、中央にある長さ30cm、横10cmほどの穴を黒い生物がウジョウジョ出入りしていた。こんな所で用を足そうものなら、ゴキブリにケツの穴をどうされるかわかったもんじゃない。便坪を定期的に汲み取りしている雰囲気もなければ、汲み取り口もない。排出物はおそらく土に還っていくのだろう。男が洗面器に半分ほどの水をもってきてくれた。この水で一晩過ごせといったところだろう。“この設備で1泊400円は高くないか?”と思ったが、草むらにテントを張って万一地雷に触れたときのことを考えると、素直にこのホテルで夜を明かすことを余儀なくされた。
 
せめて何かうまいものを食ってやろうと町に出る。しかし、レストランらしきものは一切なく、一件の売店に入る。勘定台にランプ一つ置いて商売しているおっさんは、突然の外国人の来客にキョトンとした顔をしている。商品棚を見てまた一つ、この国の現状を思い知らされた。3メートルほどの棚に商品が5つ。葉ブラシ、砂糖、ビスケットなどが等間隔に綺麗に並べられている。商品と商品の間の空間は50cm以上もあるのだ。潰れかけの店に商品がなくて惰性で商売しているのならまだしも、普通に商売していることを伝えるが如く5つの商品が等間隔で綺麗に並べてあるのを見ると、思わず目頭が熱くなる。おっさんは、「このビスケットうまいよ。」と何やらポルトガル語で言ってくれるが、とても買う気にはなれない。“オ、オブリガード(ありがとう)”と愛想笑いをしながら店を出るのが精一杯だった。
 
仕方なくホテルに戻り、非常食用に蓄えておいた袋入りのヌードルとオイルサーディンの缶詰を今日の晩飯にすることにした。部屋の前で飯を食っていると、どこからともなく数人の子供たちが現れ、遠目に僕を見ている。恥ずかしそうに手を振っては、こちらがそれに応えると引き下がってしまう。二歩下がっては三歩進む。微妙な距離を保ちながら子供たちは僕に近づいてくる。最近内戦が終わったばかりのこの国に、外国人の来客は珍しいんだろう。そんなことを想っていた矢先のことだった。
「それ、頂戴。」
と子供たちの中で最年長であろう女の子が、空になったオイルサーディンの缶を指差す。空き缶でおもちゃでも作るのだろうか?
“でも、これ油まみれだから・・・”
と僕は、キョロキョロとあるはずもない水道を探す。
すると女の子は、「ノー、ノー」と僕の方に手を差し伸べる。
 

 
“まさか!?”と思いながらも油まみれのサーディン缶を彼女に手渡すと、彼女は子供たちの中で一番小さい子に魚片を食べさせた。そして、彼女の統率の元、小さい子供から順に缶に残った油を指ですくって舐めていく。順番待ちしている子供は、舐めてる子供の顔を恨めしそうに見ている。一人あたりの舐める回数は決められているのだろう。必要以上に舐めすぎた子供は、彼女からお叱りを受けている。子供たちが残り物のたった一つのサーディン缶を秩序良く分け合っている光景に、不思議と哀れみは感じなかった。人間という“動物としての生きることへの執念”や、その環境の中で育まれている“兄弟姉妹仲間への思いやり”、こんなに若くして身につけている彼女たちの生命力や包容力を、僕は呆然と見上げていたのだった。
 
内戦の後遺症とそこに生きる人たちの恐ろしいほどのエネルギーに押し潰されそうになりながら、部屋の前にゴザを敷きモザンビークの夜空を見ながら寝床に就いた。電気の無いこの町の夜は、昼間の喧騒が幻想であったかのように静まり返っている。2001年9月11日。この日、地球上でまた新たな悲劇が起こっていることなど、この静寂と暗闇の中では知る由もなかった。
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